無知な援助は人を潰す(464日目・30日付け/ウガンダ)

長濱良起

2010年08月11日 00:21



昨日に引き続き、1年生の1時間目の授業「農場」に参加してきました。なんか、昨日やってはまってきました。
昨日は結構みんなと喋りながら耕してたのですが、今朝は寡黙に作業をしていました。

30分ぐらい経って突然1人の子が前触れもなく「テンチュー、アンコー」と言ってくれました。
みんな一緒に同じ作業をしているのに、なんか「ありがとう」って言われた事が嬉しくて、いいスタートを切れた朝です。

ちなみに「アンコー」とは「ancle」の事で、僕のここでの呼び名は「アンクル・ヨシ」なのでそうなります。テンチューと書いたのは、単純にここの英語の訛りです。



家々をつなぐ道を行く。



さて、この孤児院兼学校NEWTOPIAだけでなく、近隣の小学校なんかに行って見聞を広めて来るといいよ、というここの設立者、通称「オッサン」のありがたい一声で、今日はボランティアスタッフ何人かで近くの小学校へ見学に行ってきました。歩いて20分ぐらいの小学校です。

NEWTOPIAには2年生までのクラスしかないので、それ以降の上級の学年になったら基本的に子供たちはその学校に通っています。

この学校の名前はマテンゲート小学校。
1年生から7年生までのクラスがあり、全校生徒は350人ほど。科目はNEWTOPIAとほぼ一緒。宗教教育の時間に関しては、この辺の宗教の多様性を考えて各宗教ごとに1人の先生が担当します。美術や音楽、技術といった実技系の授業に関しては、4年生の時だけにあるみたいです。
1コマの授業時間は30分で、3年生4年生から順次英語での授業になっていき、5年生から先は英語での授業になります。7年生に関してはなぜかベッドルームまであり、泊り込みで勉強したい子は出来る、っていう状況です。

NEWTOPIAは45分授業の8コマ、小学1年生から英語での授業なので、このような学校毎のカリキュラムの差は見られます。

給食費的な存在もあります。3ヶ月で5000ウガンダシリング(約200円強)なのですが、半分ぐらいの家庭は払えないか払わない。内容はメイズ(トウモロコシみたいの)の粉をお湯と合わせてドロドロのお粥みたいにしたものです。

 マテンゲート校 校舎

パッと見た感じ、設備は充実しています。
イスも机もちゃんとあるし、建物も全然ボロくない。

この学校の一番の問題点は何ですか、との問いに「職員用の宿舎」との事。職員数は現在9人ですが、人手が足りなくて倍以上は欲しいそうです。
また、道も悪いために雨になったら交通が悪くなり、時間に間に合わないことがあるとの事。

なので今現在、職員用の宿舎を建設中なのですが、そのために生徒から1年で12000ウガンダシリング(約500円弱)を徴収しています。


そのあと、教室を見学したいと申し出ると職員が一人ついてくれて、1年生から7年生までの教室をそれぞれ回って紹介してくれました。
しかし、僕らが本来見学したい「授業の様子」ではなくて、紹介されたのは主に「教室の壁」。どういう事かと説明すると、教室の壁に貼られている紙、例えばそれは人体の模式図であったり、かけ算九九の表だったりとそういう事なのですが、その職員は「こんな風に貼ってあるから、たとえ先生がいなかったり休んだりしても子どもたちは勉強できます」と、堂々と、しかも全教室、なおかつ生徒の前で言っているのには驚きました。

しかしその理屈でいくと、学校なんていらない。だったら黙って本だけ渡してはい終了、って事に変わりありません。実際、先生がいない教室もあって「先生どこ?」と聞くと「休憩中」との回答。たった30分の授業なのに、というのが正直な感想です。

学校サイドは、一番の問題点として「職員用の宿舎」を挙げましたが、一番の問題点は、上記に書いたような職員の適当さだと思います。一番の問題点を職員用の宿舎と言っちゃう時点でもはや問題を感じてしまう事は避けられません。

農家であったり会社であったり、手抜きしたとして主に自分が損するのであれば僕はそれに対して何も思いませんが、学校という「職場」で手抜きがあったり適当さがあると、主として子どもにツケが回ってくる。そこをあまり現場の人は意識できていなかった。

それは多分恒常化していて、僕らみたいな外野が外から言わないと内側からはもはや気付きにくくなっているのかもしれません。


ここで見たそういう現実を、批判的な立場でここに書いておきたいですし、おそらくこういう事は世界中に広がっていると思います。自分の経験上、そして他の旅人からの話から、そう思います。


 ミニ黒板で勉強する。




結局、国際援助とは何なんだろうかと、特にアフリカに入ってから考えさせられる事が多い。


お金だけ送っておしまい、みたいな援助の仕方はどんどんどんどんこっちの人をダメにしていきます。


まず、援助に慣れる。

僕ら「白人」(黒人からすれば僕ら東洋人も白人。逆に白人社会だったらインド系も黒人として認識されているような事もある)は、専ら「与える側」という認識が定着してしまっています。

道歩いてて、全然貧しそうでも何でもないガキに「パンケーキ食べたいから1000シリングくれ」とか言われる事は少なくありません。そういう時は「オレも食いたいから1000シリングくれ」と言い返すと苦笑いします。こうやって見知らぬ人に金銭を要求する事は恥じるべき事なのだとの認識を持ちながら、それでも「白人は与える側」だからこうやって言ってくる。


政府間援助は、政府にどんどんお金が行って一般の人々は援助されているという自覚がない、と思っている人もいるでしょう。僕も最初はそのように思っていました。
しかし、例えば橋なんかが出来たり、何かを寄贈したりした時にはしっかりと「どこどこの国からの援助です」って書かれているものですし、現地に入っている外国人のNPO職員もたくさん見かけます。金払いのいい短期旅行者がたくさんいるようなところでは、それこそ外国人はドル箱です。そして、自分たちの国と経済先進国の財力の差も知っている。所詮外人だからインチキしてもいいと思っている人だっている。

一般の人の中にも「外国の援助」というものは浸透しているものです。



そしてたとえ政府側に金銭や物品が回ってきたとしても、それはちゃんと国民にまで行き渡っているかは不透明です。世界中が政治腐敗・汚職というのはもはや常識の世の中で、理屈が通用しないのが「途上国」の姿なのです。

経済的にも脚光を浴びませんが、こういう根底の部分で発展していけていないのだと思います。


とにかく「助けてくれるから」という発想は、自分たちでどうにかしよう、どうにかしてやるんだという意思をそぎ落とす事になります。


よく「魚をあげるより釣りの方法を教える」という表現がされますが、それは本当に素晴らしい表現です。
僕らが援助すべきものは目先の金だけではなく、一番力を入れるべきそれは「教育」だと思います。
市場での国際競争激化に恐れて、他国の成長に力を貸さないというような理屈は、視野が狭すぎて情けなくなってきます。


知識を提供する、経験を提供する、そしてこうやって外の世界を識る事で内側の事にも気付けますし、そしてこれと同じ事は僕にも言えます。極端に言うと、チャンスだけ与えてあとはノータッチ、ぐらいの勢いでもいいんじゃないかと思っています。


こういう事を、今回の教育現場訪問で考えました。





学校からNEWTOPIAへの帰り道に招いてもらった、うちの生徒カグアの家で。カグアの母ちゃんと弟。

 

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